自分自身または
依存的家族に対して受けた出来事から
感情の痛みを感じるとき
それは
自己否定感を無意識に感じる事から
感情が痛みを感じる
不当に扱われた
蔑ろにされた
大切にされなかった
見下された
その出来事を通して
自分が否定された気持ち
自分の存在を否定された気持ち
を感じてしまう。
無意識に。
そこに怒りという感情で
自分を守るという思考が働き
他者に対して攻撃として
エネルギーの使い方を選択してしまう。
本当は
自分自身が自分を
蔑ろにしてた
大切にしてなかった
自己否定していたのだ。
自分の内側に意識を向けてみる
怒りを攻撃として他者に向けるのではなく
この出来事には
どんな意味があるのか?
もちろん、初めは怒りが出てもいい
しかし、
感情のままに行動しようとしないで
客観的思考で一度深呼吸して
冷静な目でみてみる。
自分を大切にしていたかな。
自分の事を蔑ろにしていなかったかな。
自分が嫌いで自分を否定していなかったかな。
自分の存在価値を低くみてなかったかな。
客観的な思考を取り入れてみると
感情が落ち着いてくる。
あれ?
なんか…
なんで、怒りで表そうとしてたんだ?
私の気持ちを分かって!
私は傷ついたのよ!
そう、他者に分かってほしくて
すねてみた。
反抗してみた。
けれど、この心の嘆き、訴えは
私が私に向けて
分かって欲しいと魂からの嘆き、訴えなのだ。
私が出来事を通して
傷つけられたかもしれない。
しかし、
本当は自分が自身を傷つけていた。
自分の
人生を受け入れていなかったのだ。
だから
こんな理不尽な事や嫌な出来事が続いてしまう。
私の魂の本当の叫びを知るために。
他者を憎み
他者に分かって欲しくて
出来事が起こるのではない。
自分の中にある
感情や自分の全てを受け入れて認めていない為に起こるのだ。
私が自分の人生に向き合い
他者から起こる出来事は
自分に気づきを与えることだと
腑に落ちるまで
向き合う出来事は起きてくるのだ。
自分を生きるため
自分の中の感情に気づくため
自分が抱える無意識な思考に気づくため
他者を通してみせられているのだ。
出来事が起きた時に
まずはじめに他者に責任転嫁したくなる。
それは、
目の前に現実で見える化されるから。
現実である。認識できるから。
見える化された中で、解決や結論を望む意識が働くからだ。
自分の内面は見えないから
自分への内観は、意識して矢印を向き変える必要があるのだ。
内面が見えないから、他者に責任転嫁してしまう。
内面は見えないから、他者に投影して見せられているのだ。
ここに気づけた時
意識の切り替えが容易になる
思考や感情の整理もスムーズになっていくのだ。
自分の内側は見えない。
意識しなければ。