人として、どうありたい?
「あり方」ということを理解するまで
私は知りませんでした。その言葉を
【私の辞書にありません!】そんな感じでした
それを自己メンテナンスの時に始めて知ったとき
あり方?
あり方って何?
・・・
分かりませんでした。
「人としてどうありたいですか?」
ん??
人としてどうありたい?
という考えのもとで、生きていませんでした。
私は謝るという経験があまり記憶にありませんでした。
なかなかの頑固者だと思うのですが
プライドが高く
負けず嫌い
いらない思考や感情を大切にしてしまっていました。
この感覚が、
自我を主張します。
素直になれず,認められず,拗ねる、羨む、許せない。
わぁ!
あまりにも、嫌なヤツ、、、
まぁ、仕方ないです。
これが私を生きるということ
私の人生を生きるためには
必要な資質として備わっているもの。
その使い方に
隔たりをもっていたと
「知った」ことが大切。
そう認めてあげた上で
このネガティブに変換されやすい思考を
どうやってポジティブに使っていくかが重要。
・素直になれないんじゃなくて、受け入れるのに時間がかかるのです。
・認められないんじゃなくて、新しい意見をプラスする事には、慎重なのです。
・拗ねているんじゃなくて、間違ってしまった自分が恥ずかしくてうまく表現できないのです。
・許せないんじゃなくて、感情が激しくなって自分で冷静にコントロールするのには、とても時間がかかるのです。
・羨ましいのではなくて、本当は自分も素直にそんな風になれたらいいなと思っているのです。
こんな風に
自分を受け入れてあげられたらいいよね。
そして、
「あり方」を意識して生きてこなかった私は
過去に意見の相違があった時には
白黒判断のみ!しかありませんでした。
「自分だけが正しい!」という自分論を崇拝していた(;´∀`)
他者の意見もある
違った感じ方もある
違った資質の人もいる。
なんて思ってもいませんでした。
簡単にいうと自己中心的な人物だった。
でもね
このような人物像が、当時は必要だった。
この自分論があったからこそ、今までの辛い経験も乗り越えて生きてこられた。
とも思っています。
一人で障害のある子どもを育てる為には
男性的なわたしである必要がありました。
すべてを一人で決めて、一人で選択してきたので
他の意見を知りませんでした。
聞く耳ももっていなかった。
相談することもなかった。
全てを受け止めてきた。
これがうまく回っていたのが不思議ですが、当時は違う学びがあったので
そこはまだまだ先の学びだったんですね。
だから
この生き方
この考え
この選択の仕方が正しい!
そう勘違いして、生きてきてしまったんですね。
凝り固まった思考を作ってしまったんですね。
「あり方」よりも、一日生きるのが必死だったために
心の余裕ゼロだったんですね。
他者を知ろうとするという思考も全くありませんでした。
自分と子供だけで精一杯。
そもそも、人間嫌い!ひと嫌い!
ずっとあるテーマの学びなので
人との距離感を近づける努力もせず
人という大きなくくりで、人と接していた。
ざっくり、ツール分けの付き合いのような感じ
この人は学校の母友
この人はご近所さん
この人は病院関係
カテゴリー化された人間関係、まさにロボットのようです。
当時は、人と深めていく必要もなかったんですね
今を生きるのが精一杯だったから
今を必死に過ごすのが精一杯だと思っていたから
心の余裕が全くなかったんですね。
そして、大きな転機となったのが
ある人との出会いによって人生が変わっていく。
他者を知ることを学ぶ時期に入っていった。
上記のように生きてきた私には
他人を思う気持ち、ほぼゼロ
何かをしてあげたい気持ちはありましたが
この何かをしてあげたい!気持ちは
私の自己満足に繋がるだけ
自分が満足する行為でしかないので、他者は関係ない
ただ尽くすことだったりはするけれど
発動源は自己満足から
尽くすって聞こえは言いかもしれない。(人によっては)
しかし、自己満足の上にあるのは、
ギブ&テイク
無条件の愛ではなかった。
ギブ&テイクの上にある恋愛って
何かをしてあげたら
何かが返ってくる
尽くしたら 愛が返ってくるとか
そんな恋愛しかしてこなかったから
次は無条件の愛の学びなんだろうな〜って思う
ギブアンドテイクの恋愛にあるとき
意見が合わなければ、そこで反発し合う
そして、
正しさという協議になったりする。
相手を尊重するのではなく、正しさの競い合いだったりする
私がまず、学んだのは【謝る】ということ
「お前は謝らないよな!」と言われた時に、
「はぁ〜???」となる。
謝るには理由が必要だと思っていたから
小さい頃に「悪いことをしたら謝る」しか学んでこなかった。
だから、何も悪いことをしていないのに
何でこの人は
簡単に謝れといい、謝れるのだろう??
と疑問に思ったことがあった。
あまりに面倒でしつこいので
謝ってみたら
【何で謝っているのか分かっている?】と聞かれた
………………?????
分かる訳がない。
謝れと言われて、しつこいから謝っただけ!(心の中で訴えた)
やばいでしょ・・・( o̴̶̷᷄ ·̫ o̴̶̷̥᷅ ;)30代後半の頃
だって悪いことをしていない。のだから
謝る必要さえ分からなかった。
この人は、「自分のあり方を謝った」のだ。
考え方、意見の相違を謝ったのではない
悪いことをしたから謝ったのでもない
【声を怒鳴りあげた,威圧的になった。】この行為に対して謝ったのだ。
自分のあり方を思い出し
自分のあり方を見直して謝るということをした。
これをきっかけに
謝ることが難しいことではないと知った。
自分の為に謝る。
自分が「人としてのあり方」について
誤った考えや行動、自己防衛、被害妄想によって
他者へ向けてしまった
「人としてやってはいけない行為」に
「人としてのあり方」を見直し認めることで
自分を正し、他者に謝罪をしたのだと知った。
私の人としての心のあり方
それがなかった訳ではなく
頭の中にあって、それが「人としてのあり方」であるとは
理解していなかった。だけでした。
なので、頭の中にある思考を
文字にして、目で見直してみてから
声に出して、耳で聞いてみることで、自分に刻む(意識する)ことができる。
人として、気遣いや思いやりをもてる人でありたい
人として、自分がされて嫌なことは他者にも求めない人でありたい
人として、他者を裁くことなく違いを認め、他者を尊重できる人でありたい
人として、あり方に間違いがあると気づいた時、素直に認められる人でありたい
人として、優越・秤で人生を歩まない人でありたい
人として、与えられた人生を諦めずに生きる人でありたい
私の心のあり方
もしも「人としてのあり方」を意識していらっしゃらない方は
気づいたときから、
心のあり方を文字にして、認識してみてください。
自分のあり方、
心に従って日常を過ごしていく時
自分の愛の部分に触れながら
生きることができるのかもしれない。
あり方をもっていますか?
新しい時代のスタートに
意識してみませんか 。