他者の気持ちに身を置き換えるって?

■思考の幻想
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自分の人生

自分の好きな選択で、自分の思うように生きたい
 
主観的な人生の選択をし、自分の人生を歩む

しかし、

人生は自分のものであるが

生きている社会、環境は

共有・共存のもの

 
 
 

自分を生きるために、
今を

生きて
他人に
振り回されないよう
自分軸をもち、
意識を
自分に合わせる

主観的な生き方

 
だけど、

生きているのは共有・共存している場である

この地にいることは、

この地の人と共有・共存しているものがある。

その認識も意識することが大切。

当たり前にある場所
当たり前の家

共有・共存していること

 
 
 
人間は色々なことを複雑に考えてしまう
それは、
自分と他者との区別がつけにくい思考
 
 
 
 
自分を生きるけれど

他者も大切

 
 
 
他者を排除はできない
共有している環境も
自分だけのものではない
 
 
 
だから、

社会ルールがあり法律がある

共有するものの、ルール
心のあり方や、基準を設けている

そして、

整備された環境で安全が当たり前として、存在することが出来ている。

 
そこに、
それを守る人たち(職種)もいる
 
だけど、
個人的には
環境・地域・公共の場を守る人に
会うこと接する事がなければ、
 
 
 

私たち個人が

安全に生きられる為に、
誰かが日々努力してくれている事には、
目を向けることは少ない
気付きにくい・当たり前になってしまう
人間は、
自分を守る為の自己防衛が強く働く
 

生きる為には当然なこと

だけど、
忘れてはならない

共有・共存の社会の中で生きていること。

 
 

「当たり前を当たり前としない
  思考に意識を加えることの重要性をしろう

社会を守る人
地域を守る人

組織を守る人

家を守る人
 
 
 

当たり前過ぎて、みえなくなってしまうからこそ

その人の気持ちに、自分の身を置き換えて考えてみるとき
 
 
 

社会のみえ方

自分の生き方
心のあり方

日々のあり方

他者の思い他者の気持ち

当たり前の毎日が変わる

当たり前が「感謝」に変わる

 
 

当たり前が当たり前でない意識
全ての事柄には、思いの先に行動がある
 

 
 
例えば
主婦という家族・家庭を守る仕事の人が
”当たり前”になる時
家族からは、感謝は消えていくだろう
 
 
当たり前の意識にあるとき
家族からは
いつもの〜〇〇がない時』に
否定的な
言葉を受けるかもしれない。
『なんで?〜がないの?』
 
 
 
 
どんな人にも、

自分以外の人から見える肩書きをもつ。

その肩書きが、当たり前でなく
日々の意識と努力、思いによって
この瞬間も続けている行動としてある
ことに

 
 

意識をして
見直してみよう

地域を守る、警察の方
安全を守ってくれている
だから、私たちは身の危険を無意識に
ないものとして暮らしている。

無意識な安全を

日本人は当たり前に思考する

 
 
それは、

子供の頃に無条件に命を守られて生きてきた記憶がある

 

泣くだけでも、無条件で守られて
安心の中で眠り、お腹がすくまで

安心に包まれた時間の中に生きている

 
 
無意識な記憶が、当たり前の記憶になっている。

 
゚+。*゚+。。+゚*。+゚ ゚+。*゚+。。+゚*。+゚
 
 
主観的な思考は
自分の為にだけ必要なこと!
と捉え直してみよう

共有・共存の場で起こることは

他者の理解をくみ取ることで
人間関係は潤滑に進む
 
 
 
 
両方の考え方が必要で
そのどちらかにバランスが偏ることで
人はストレスとして感じている。
 

 

自分の主観的な思考で
他者との関わりにおいて
物事を捉えていたり、整理している事ありませんか?

 
 

自分の都合だけを優先させた思考はありませんか?

 

そこに、他者の目線で考え感じたり
他者の立場に身を置き換えて感じることで、

見え方はバランスを取り戻し

ストレスと感じていた事さえも

物事の両極を理解することで

新しい視点の理解が加わり

片側からしか見えていなかった事を

両極からみることで、よりバランスのとれた思考になる

 

 
主観だけでなく、客観的思考が
バランスを取り戻すヒントになる
 
 

 

人の気持ち、行動、思考に
自分の身に置き換えて考える事ありますか?

 
 

 

私自身も、主観的な思考でストレスを感じることもあります。

そして、その意味を考えるとき
客観的思考を取り入れる
 
 
 
この行程をしてから脳に記憶をしている。
この整理する行程が抜けている
ストレスのもとになってしまう。
 

 

 

とっても大切な作業
自分を見直す時間
内観
 
 
 
なぜ?
どうして?
そんな疑問から
内観してみよう。
 
 
 
 

自分の主観的な考えだけで
思考し無意識にジャッジをすることは
日常の無意識

 

 

だからこそ、
 
 
 

「意識して客観的な思考を入れる」ために
相手側に身を置き換えて思考することを、 【意識する】事が、

人間関係でのストレスを

そのまま放置せずに過ごすために、とても重要になります。

 

 

 

 

 
例えば、こんな経験があります。
 

夜中に突然パトカーのサイレンが大音量で鳴りだしました。

突然なので、

心臓がバクバクして起きてしまう

 

 

日常のストレスから、

「うるさい、起こさないで!!」と主観的な思考になる。

主観的な勝手な理由づけを脳内で始めます
 

 

こんな夜中に起こして、

子供が起きたらどうするのよ!とか思うかもしれないですよね。

 
 
 
でもね、その時に
主観的に腹を立てたサイレンの音に思考を向けてみる

 

 

「何でこんなに大きな音なの?」

 

 

最近整備された道路で音が響くようになったのもあるのですが
それはそれで、ありがたい

便利になったのでね。

 

でも、ここを主観は棚に上げてになる。

 

 

でね
このサイレンの音を、

もしかしたら安心と感じて待っている人がいるんじゃないかな?」

 

 

客観的な視点

誰かの身に自分を置き換えて思考する

 
 
 
夜中1時、真っ暗な中で不安は増す
だけど、遠くから聞こえる
遠くでも聞こえるこのサイレンの音

見えない誰かの「安心に繋がっている」のかも。

 

 
 
そう、客観的な思考を入れた時

 

 

 

夜中に働く警察の方に感謝もうまれるし
人々が寝ている間にも働く人がいて
安心で眠れる事への感謝に変わる
 
 
 

人は主観的思考だけでは、成り立たない

主観的な思考だけに偏ることが

生きにくさや人間関係のストレスになっている

 

 

 

 

私は、19歳で母を亡くしていて

家で突然、心肺が止まったのを目の前でみている。

救急車を待つ時、どんなに時間の長さを感じただろう。
 
 

救急車を、誰か誘導する人が近くまで出てきてくださいって言い、

駆け出して行き待っていたのを覚えています。

 
 
あのサイレンの音がどんなに心に勇気をくれただろう
大丈夫、もうつくからね!
そうサイレンの音は教えてくれる。
 
 
待つ人の気持ちになると、大きな音だからこそ、安心に変わっていることを改めて
気づかせてもらいました。
 
 
 
日々意識して生きる時、
自分自身で気づくことが増えてきます。
 
 

人の身になって感じることと

〈人の気持ちを察する〉この違い、気づいていますか。

 

 

〈人の気持ちを察する〉ことを=人の気持ちをわかっている。

そう誤認識している人も多いです。

 

 

察することは、
主観的な思考の先にある<自己基準 自己常識 主観的なルール・価値観 自己経験のある基準> でしか理解できていない

 

 

他者の身に自分を置き換えて感じることで、

見えてくる真実

それでも

他者の気持ちには100%の理解はできないが

寄り添う努力をすることができる。

 

 

 

ここの違いに気づけると
他者への許容範囲が広がり
 
 
 

今よりも生きやすく
共有・共存の社会を生きる


生き方にも
変化が起きてきます
 
 
 
理解し合うことに違和感を感じる時
自分自身を否定しているのは、自分だよ。って言葉をかけてあげてね。
 
 
 
 
 
他人の気持ちに、自分の身を置き換えて感じることは、
感情を感じること
思考で判断するのではなく
感情で感じること
 
 
 
 
感情
見えない心や見えない気持ち

 形に表現することが、難しいと感じやすい。

 

 

それは、感情は

個々に感じ方が違うのでね。

 

 

 

感情を感じる生き方をしていくことが

見えない形、見えない気持ち

を身近に意識して生きることに繫がる

 

 

 

感情に意識を向けてみよう。

自分にも他者にもね。

 

 

 

 

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