人生は自分のものであるが
共有・共存のもの
自分を生きるために、
今を
他人に
自分軸をもち、
意識を
主観的な生き方
生きているのは共有・共存している場である
この地の人と共有・共存しているものがある。
共有・共存していること
他者も大切
社会ルールがあり法律がある
整備された環境で安全が当たり前として、存在することが出来ている。
私たち個人が
生きる為には当然なこと
共有・共存の社会の中で生きていること。
「当たり前を当たり前としない
思考に意識を加えることの重要性をしろう
組織を守る人
当たり前過ぎて、みえなくなってしまうからこそ
社会のみえ方
日々のあり方
当たり前の毎日が変わる
当たり前が「感謝」に変わる
自分以外の人から見える肩書きをもつ。
その肩書きが、当たり前でなく
日々の意識と努力、思いによって
この瞬間も続けている行動としてあることに
意識をして
見直してみよう
無意識な安全を
子供の頃に無条件に命を守られて生きてきた記憶がある
泣くだけでも、無条件で守られて
安心の中で眠り、お腹がすくまで
自分の為にだけ必要なこと!
共有・共存の場で起こることは
自分の主観的な思考で
他者との関わりにおいて
物事を捉えていたり、整理している事ありませんか?
自分の都合だけを優先させた思考はありませんか?
見え方はバランスを取り戻し
物事の両極を理解することで
両極からみることで、よりバランスのとれた思考になる
人の気持ち、行動、思考に
自分の身に置き換えて考える事ありますか?
私自身も、主観的な思考でストレスを感じることもあります。
自分の主観的な考えだけで
思考し無意識にジャッジをすることは
日常の無意識
「意識して客観的な思考を入れる」ために
相手側に身を置き換えて思考することを、 【意識する】事が、
人間関係でのストレスを
そのまま放置せずに過ごすために、とても重要になります。
夜中に突然パトカーのサイレンが大音量で鳴りだしました。
心臓がバクバクして起きてしまう
日常のストレスから、
「うるさい、起こさないで!!」と主観的な思考になる。
子供が起きたらどうするのよ!とか思うかもしれないですよね。
「何でこんなに大きな音なの?」
便利になったのでね。
もしかしたら「安心と感じて待っている人がいるんじゃないかな?」
客観的な視点で
誰かの身に自分を置き換えて思考する
見えない誰かの「安心に繋がっている」のかも。
人は主観的思考だけでは、成り立たないし
生きにくさや人間関係のストレスになっている。
私は、19歳で母を亡くしていて
家で突然、心肺が止まったのを目の前でみている。
救急車を、誰か誘導する人が近くまで出てきてくださいって言い、
駆け出して行き待っていたのを覚えています。
人の身になって感じることと
〈人の気持ちを察する〉この違い、気づいていますか。
〈人の気持ちを察する〉ことを=人の気持ちをわかっている。
そう誤認識している人も多いです。
察することは、
主観的な思考の先にある<自己基準 自己常識 主観的なルール・価値観 自己経験のある基準> でしか理解できていない
他者の身に自分を置き換えて感じることで、
見えてくる真実
それでも
他者の気持ちには100%の理解はできないが
寄り添う努力をすることができる。
今よりも生きやすく
共有・共存の社会を生きる
生き方にも変化が起きてきます
形に表現することが、難しいと感じやすい。
それは、感情は
個々に感じ方が違うのでね。
感情を感じる生き方をしていくことが
見えない形、見えない気持ち
愛を身近に意識して生きることに繫がる
感情に意識を向けてみよう。
自分にも他者にもね。