離婚っていけないこと?
離婚って恥ずかしいこと?
離婚・・・
世間的に自分を評価される事柄かもしれない
離婚したことを負い目に感じていたら
離婚したことを問題のある自分と捉えているとしたら
離婚という出来事によって
自分も
自分を罰しているということにつながってしまう
そして、その思考を持ち続けていることは
人を肩書で判断したりする相手を引き寄せてしまう
離婚という出来事を経験した人を
離婚を経験した人というフィルターにかけて
離婚を経験した人として
評価することになる。
自分自身も
離婚を負い目と捉えている時(無意識でも)
そういったフィルターを持った相手を選んでいるという事実
肩書や他者からの評価や実績などという
その人のありのままではない
付加価値となるものをつけた状態で
人を評価したり、ジャッジしたり値踏みしているということになる。
思考では、気にしていない・・・と思っていても
自分の心の反映を、他者がするので
自分自身が相手を見極めたり決めたりする基準には
そういった肩書や付加価値、評価によって
人を区別しているということになる。
自分自身が離婚した人と見られたくないという気持ちがある時
それをされて嫌なことを
自分自身も無意識にしている真実
離婚について
世間一般という考え方もあるかもしれません。
一人の人と添い遂げられることが美徳とされる日本人の考えもあるけれど
違う考えの人もたくさんいます。
例えば、
離婚してくれたからあなたと出会えた
離婚したことと、あなた自身に何の問題もない
離婚してくれていてありがとう
離婚していなかったら、出会えなかったね
そういう思考の方もたくさんいらっしゃいます。
離婚を汚点と考えていたら
そういう見方をする人との出会いにつながってしまう
離婚という肩書として
人を評価したり肩書でみる人との出会いに繋がってしまうから
離婚はプロセス
離婚は出来事
離婚はきっかけ
離婚は自分が原因ではない
そう正当化する思考が浮かぶ時
離婚は悪いものと判断してしまうだろう
離婚の原因が相手にあって
相手が悪いと決断づけていれば
離婚という出来事がなければ・・・
私の人生はどうだった?
(他者への責任転嫁は、自己防衛反応なので、必然的な思考)
離婚をしたことを
良い悪いという判断で位置付ける時
離婚したことをマイナスと捉える時
自分は離婚したことによって
人生が変わった。と評価する
他者によって影響を受けたと・・・
そして
離婚したことをいけないことと思考しながら
無意識では、離婚した自分がダメだと評価し
離婚した自分自身を罰しているという心理
自分自身にも
いい悪いというジャッジをしているということ
例え、離婚の原因が相手にあったとしても
離婚をするという決断を下したのは
自分自身だと知っているからかもしれません
無意識では自分の決断によって
離婚したということを理解している
離婚届に署名捺印して
意思決定をしている
離婚を選んだのは自分自身だから
他の方法もその時あったはずだから。
最終的に、
離婚を意思決断したのは自分自身
しかし、
人間は矛盾した思考を持つために
離婚は相手に与えられた
それによって私の人生が変わった
そう捉えてしまう。
自己防衛反応によって
自分を守る思考が働く
離婚ということを
いけないこと悪いことと
無意識に捉えている時
それは、離婚した自分自身を罰しているという真実
離婚した自分はダメな自分
離婚した自分は完璧ではない自分
離婚して当たり前な自分
そう思ってしまうような出来事を過去で経験しているために
自分を責めて自分に罰を与える思考
自己肯定感を低く持ってしまっているということ
そうなって当たり前の自分
そうなることが自分にはあっている
どうせ私は愛されない
どうせ私は大切にされない
どうせ私は守ってもらえない
どうせ私の人生こんなもん
どうせ私は幸せになんてなれない
どうせ___
隠れている真実の思い
ここに直結してしまう。
離婚を前向きに捉えるには?
離婚によって、私は何に気づく必要があったのだろう?
そんなのあるわけない_・・・
だって相手が悪いんだもん
って結論づけてしまえば
ずっと離婚した自分・・・という肩書を
自分自身がつけ続けることになる
離婚の原因は
出来事から与えられ
出来事はキッカケでしかない
お互いにとっての学びがそこには必ずある
ここを内観する必要がある
なぜ内観が必要なの?
この気づきが起きない限り
結婚しても離婚を繰り返すから
例えば 私が離婚して何を学び何に気づいたか?
障害がある息子(キッカケ)がいることによって
私は一人で抱え込みすぎていた
助けてが言えなかった
聞いてが言えなかった
手伝ってが言えなかった。
お互いにお互いを思い合うために、本音が言えない関係を作っていた。
ときづけた
これはパートナーシップを築く時に、自分の思考癖がここにあることになります。
この気づきは大きく
本音が言えないことで
自分が抱え込み、相手を思うあまり助けてが言えない
そういった思考回路を持っていることになる
すると、この気づきが起きない時
相手を変えても、同じパターンに陥って
またストレスを抱える生活が
与えられるということにつながる
相手を気遣うことは、好きだからであり
それは相手も同じく
元夫は仕事に真面目でよく働く人でした
なので、仕事に支障がないように
私ができることは自分自身でやり
話をしても、息子のことであっても
ある程度の結論づけをしてから
相手に話す
そして、元夫も私に任せてくれていたので
反対することもなく、
いつも「ママがいいならそれでいいよ」
そういう反応をする人だった
きっとそれが家庭円満に回る家庭もある
けれど、私たち家族は
障害を持つ息子がいたために
負担のかかり方が違っていた
年月が経つごとに、私の負担がたまり
溜め込みすぎてしまい
元夫も私に任せてくれていたので
反対することもなく、いつも「ママがいいならそれでいいよ」
これが初めは良かったけれど
どうして、自分の息子のことなのに
何の意見もないの?
という矛盾する思考が私の中で浮上してきたのです。
もういっぱいいっぱいで悲鳴をあげて
やっと爆発したんだと思います。
ここから歯車は狂い始めます。
きっかけはどんなことか
それは些細なことかもしれません
関係がうまくいっていても
本音で生きていないことで、
こういう見直しのタイミングが現れるのです。
そして、私が学んだのが
お互いがお互いを思いやるために
お互いが本音を言わずに暮らしてしまった。
そういった歪んだ愛の家族が出来上がってしまった。
この学びでの気づきは
人が変わればきっと忘れてしまうでしょう
だけど気づきが起きる時に
パターン化している自分の行動や思考回路を知っていることで
立ち止まった時、不安やストレスを感じた時に
相手に向ける思考を自分に戻す時に
立ち止まれるのです。
すると、相手と関係の築き方が変わったくるのです
離婚は、出来事で
きっかけにすぎず
気づきが起きなければ
同じことを繰り返す
離婚したことを悪いことよくないことと
判断することは
自分を罰して生きるということ
離婚した自分を
許せていない
受け入れていないこと
そこに気づく必要がある
気づきが起こることで
同じパターンを回避し
パートナーとの関係の築き方にパターンがあることをしり
そうなる自分を客観的に見直すことで
パートナーとの関係性を築き直すことにつながる
離婚は悪ではない
繰り返すことは、
自分のパターンに気づいていないから
気づきは、離婚したことで何を学んだかにある
出来事に意味はない
相手に向けた原因を探すことに意味は持たない
自分の中にしかない
離婚という経験を通して
自分は何を学んだのだろう?
そこに気づきが起きることで
同じ学びを繰り返さずにすむ
経験したことは、理解し知ること
そこに気づき学びがあり
それを自分自身で気づくことにある
それが出来事を通した経験という学びだから。
離婚という経験に
ジャッジをつけて
いけないことや引け目を持つ必要もない
それを持つことで
そういった見方で
人をジャッジし
値踏みをする人との縁がつながる
経験を学びとし気づきを得る
それは出されたお題に対して
自分で答えを出すこと
答えが出たならば
同じ学びが起きたとしても
パターンかする自動思考だと知っていることで
同じ間違いを回避することができるのだから
自分の自動思考は変えられないとしても
自分の思考癖を知っていることで
同じを選ばない自分になれるのだから
そのための学びと経験でもある。
経験に意味を持たせないことが
繰り返す現実を引き寄せる
お題が出されて、答えをまだ導き出していないという現実がそこにあるのだ。